買い狐の取り扱いに注意
D X C
指先でなぞっていくビート
繋いでいてよ 今だけは
何もかも忘れて
私だけ愛して
/Abyssmare、《Take Me On》
……やっちゃった。
一番最初に浮かぶのはあの一言だった。
休暇シーズンの風は馬鹿が引くって言われる。ジフンがあれを成し遂げた。くしゃみするだけで辛そうな声が部屋に響く。鼻をすすりながら、ジフンは過去の自分を呪った。
「クッソ……」
何が発単だっけ…。元々風邪というものは急に訪れるものだが、今回だけは原因が分かる気がした。いや、明確だった。ワールズチャンピオンシップが終わった後、はしゃぎすぎて酔っぱらって、裸で寮のあちこちを歩き回って…。その後のことは考えないことにした。外出の数が多すぎたのもある。練習もないのに引っ込んでもしょうがないじゃないか。またベスト8、っていう曖昧な成績に、そんなに気を遣ってはいないジフンだったが、人である以上、悔しいのは仕方がないという。最近の出来損ない仕上がりで、ノックアウト進出ってことでも大したもんじゃない?そう考えづつ、何で手はビールを口に注ぐことを止まらなかったのか。でも、俺はいつも最高潮だったけどな。酒が強いわけでもないのに。普段やらないことやるから、罰にあたったのだ。ハクション!コホン、コホン…。こんなんでもコロナじゃないんだし、これはこれで奇跡だ。
誰もいませんか―?
いるわけないのに、布団を敷いたまま乾いた声で呟いた。自嘲的な笑いを零してから、また眠りにつく。
再び目を開けた時には、もう夕立が過ぎていた。プロゲーマーの昼間は今からだっていうのに、風邪が酷すぎて椅子にも座れなかった。
やけに寒い感じがした。天気はすこし温まってきたが、熱のせいかあらゆる肌に悪寒を覚えた。ジフンは布団の外に両目だけひょっこり出した。
「……本当に誰もいないのかよぉ……」
何してるんだ、俺。一人でぶつぶつ言いながらベッドから起きようとするが、薬の効き目が落ちたのか、目が眩むような頭痛が襲ってきた。結局そのまま倒れてしまい、床には滑稽だ姿勢で伸びたジフン、そして無造作に散らかった布団だけが転がるようになった。布団と一緒に落ちた携帯がジフンのすねにぶつかり、何とも言えない痛みを感じた。瞬きすると、正面には点灯が見える。
「……畜生……」
何で涙が出るんだ?大したことないだろう?全部風邪のせいだ。寂しいのも、ランクゲームで連戦連敗してるのも、目眩で苦しいのも、さっき携帯の画面にひびが入ったのも、全部、全部風邪のせいに回した。そうでしょう?普通こんなに怒らないはず。そんなの理性的に考える脳細胞なんて残ってるはずがない。急にイラついてきたけど、ご飯も食べていないジフンは暴れだす気力すら持ってなかった。何一つまともに出来やしない。
そう馬鹿みたいにしばらく伸びていた。数十分はぼっとして天井を眺めていた気がする。何もかもが無駄のように感じる。もういい、それよりご飯だ。もう、ってイラついた声と共に、携帯と布団をベッドの上に適当に置いてからゆっくりと立った。まだちゃんと戻ってない平衡感覚で足を踏み出しながら、ドアノブを掴んでドアを開けると――
「いたっ!」
悲鳴と一緒にまた視界がぼやける。な、何かに、ぶつかった?固い、何かに、痛い……。凸を触りながらふらふらしてると、また体が偏る。幸い、そのまま顔面が床や壁にぶつかりはしなかったってことなんだけど……。
「……何やってるの?」
耳元で馴れ馴れしい声が聞こえた。力が入っていなくて、呆れたようなこの口ぶり……。ジフンはおぼろな精神でも、その声の持ち主は確実に聞き取ることが出来た。
「……ど、どうしてヒョッキュさんがここに……」
「どうしてって、お前、調子悪いんだろう?離れろ、風邪が移る……」
それでようやくジフンは、自分が寄せていたものがデフトだってことに気づく。慌てて引き上げようとしたが、頭が重いため、長身の体をけたたましく動かしながらふらつくだけだった。その様子が可笑しくて、ヒョッキュは笑交じりの溜息をついて、ジフンを自分から突き放そうとした。だが、その笑みもほんのわずか、顔色がどんどん真面目になっていく。
「お前……、熱すごいぞ」
「え?ね、熱?さ、寒いなって思ってはいたけど」
「薬飲んだの、いつ?この状態でどこに出かけようとしたんだよ」
「えっと、寝る前に……ちょっと、何すんだよ、待って」
ヒョッキュはジフンを再びベッドに座らせた。散らかってる布団をばたりと広げては、 早く横になれって顔でジフンを見つめた。ジフンは口を開けようとしたが、くしゃみのせいで言葉が上手く出なかった。結局無気力に横になってしまった。いや、待ってって!?
「もう少し寝ていろ…薬は俺が持ってくるから――」
「ヒョッキュさん、俺……」
「患者が喋っている……」
「…………腹減った……」
トントントン。ジフンが返事の代わりに奇妙な音を出した。すれば、ヒョッキュはゆっくりとドアを開けて、プラスチックの容器とスプーン、コップを持って入ってきた。その様子をジフンの瞳はずっと追っていたが、ジフンの顔色は、ヒョッキュが部屋を出る前よりも悪くなっていた。しきりに席をし続けるジフンの喉からは、血の味がするような気がした。
「お粥、買ってきたから食え」
「何でお粥……もっと美味しいもんないの?」
「うるさいな……じゃあ食うな」
「すみません……」
床のテーブルにそれらを置いたヒョッキュは、ベッドの端に腰かけて、ジフンを眺めた。ボロボロの髪、顔もしかめっ面のまま、布団をかぶって座っている姿を見てると、「やっぱり子供だな」って思ってしまうのも仕方ない。スプーンを手渡されたジフンは、お粥を一口すくって、ふうふうと吹いてから口に入れたが、舌がやけどしてすぐ抜いてしまった。猫かよ。
「あふい……」
「知るか」
そうやって、部屋の中には、しばらくジフンがお粥を食べる音だけが鳴っていた。ヒョッキュはスマホをいじりながら、たまたま、「口には合う?」「もう熱くない?」等の些細なことしか言わなかった。頬っぺたに熱が上がったジフンは、口の中に食べ物を入れながらもヒョッキュをちらっと見た。小さいプラスチックの容器を殻にしてから、薬なんて飲みたくない、とかなんとか言いながら抵抗するジフンと、早く飲めと督促するヒョッキュ。どうにかお湯をごっくりと飲んだ後、薬まで飲みすましたジフンは、ようやく一息ついたような顔でベッドの上のクッションに寄り掛かった。
「けど、ヒョッキュさん、実家帰ったんじゃないの?」
ぼっとした顔で聞く。ヒョッキュはその質問に眉をうごめいて、ジフンへと顔を向けた。ゆっくりとした瞬き。それから再びスマホに目を向けるヒョッキュは、こう言うのだ。
「お前が苦しんでいるのに、俺がどこ行くって言うんだ」
それは、二人を黙らせるには十分な文章だった。ジフンはヒョッキュの横顔から目が離せなかった。痛い視線を感じたヒョッキュは、頭を軽く掻いてから加えた。
「……他のやつらは全部実家に帰ったんだからさ。お前は寝込んでどこにも行けやしないし……そういうもんじゃない?痛い人を一人きりでほって置くなんて、出来るわけだいでしょう」
それに、俺もそうだし。
……みたいな声が聞こえた気がしたが、元々デフトの声に力なんて入ってなかったので、ジフンに聞こえるわけがなかった。だが何故か、そういうことを言うまでもなく、ジフンの頭には、どうしても去年のヒョッキュが浮かんでしょうがなかった。痛くて苦しんでいた、あのデフトが。今年だって大して変わってはいない。もちろん去年よりは良い手入れを受けてはいるが……。ジフンは、見かけたのだ。一人で隠れて、息を荒らしたデフトの姿を。気味の悪い脱力感、無力感が今でも頭の一片を捉えている。ヒョッキュは自分をじっと見てるジフンのことを横目で見て、すぐ席で上がってしまった。
「もう大丈夫みたいだから、先に行くね?」
そう言ったそばから、ジフンは激しく咳をした。すれば急に体を前に傾けながら、立ち去ろうとするヒョッキュの腕を掴んだ。平然とした顔で振り返るヒョッキュは、ジフンが何かしらの一言を吐き出すまで見下ろした。腕を掴む手が熱い。ジフンは乾いた声を何回か出した後から、ようやく言葉を出し切った。
「……いかないで……」
先から二人の間を襲う静寂が、あまりにも気に障っていた。今、この時間を切り取りたかった。実は、他に言いたいことがあったんだろう?どうでも良かった。何でも言うべきだった。それで出た言葉があの五文字なんて、最悪だ。目を強く瞑って断固な拒絶を待つジフンに、影が差してきた。
「熱いよ」
一瞬ジフンのおでこに比較的に、冷たく固い感じがした。びっくりして瞼を開けると、ジフンの視界はいつの間にかヒョッキュの顔で満ちていた。混ざりこむものなんて全く、なかった。ヒョッキュの腕を掴んでいたジフンの手は、いつの間にか力が抜けていて、代わりにその手の甲を、ヒョッキュの左の掌がそっと押していた。すぐそばに人の顔があるため、自分の吐息がどれだけ熱いか感じられる。元々安定してない呼吸が、もっと乱れる。ヒョッキュは構わず、そのまま右手でジフンの手を掴んだ。手首を触った。それに気づいたジフンは、自分のだけではなく、ヒョッキュの口を通した空気の流れまで意識してしまう。触れている全ての肌が、冷たい………
「……ひ、ヒョッキュさん、風邪、うつ……」
そんなジフンの警告が終わることはなかった。時間が止まったような気がした。今感じてる感触が何なのか、区別がつかなくなった。しばらく経ってから、ジフンは他人の息吹が離れていくって分かった。それからまた、見上げた。そうしたら、そこには、いつか自分に向けられてた、柔らかいヒョッキュの笑顔があった。
「お大事に、ね」
ドアが閉まる音がする。
ジフンは未だに、その手の影が自分に絡みついているような感じがして溜まらなかった。影は冷えてるのに、瞳はその笑顔が焼き付いたかのように、鮮明な熱が残っていた。
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