岸辺露伴のクィアニス(queerness)
ジョジョ自体が元々そうじゃないですか? ということであれば、そうなんですけど…
ジョジョは全てを貫通して登場する重要な特徴がある。 私たちが荒木さんの「偶然の成功」と称するまさにそれだが、クィアニス、すなわち性少数者的特徴だ。 このため、西欧圏のファンダムが大きく、多様なクィア的分析で熱狂する。 自分たちで甲論乙駁で戦ったりする(笑) ただ、東アジア圏には比較的これに対する議論が少ない。 下手をすると攻撃を受けるのではないかと心配だからだ。
ただし、本稿では岸辺露伴のキャラクター個人としての性指向性/性アイデンティティではなく、作品内で記表(signifiant)として持つクィアネスを論じる計画である(もちろん性指向性/性アイデンティティ解釈も個人的にはあるが、これについては言葉を控える)。
ジョジョは着実にマンボックスから外れたファッションとジョジョ立ちと呼ばれるポーズを固守してきた。 それでいつもクィアニスはあった。 これは単に荒木さんが美学を深く探求したために、ハイファッション雑誌の独特なポーズや衣装を借用したために起きることだ。 男女を問わず、共通的に身体を表すように描くのは、彼が体を美学的に描き出そうとする欲望だろう。 エロスをロゴス的に借用しただけだ。このような現象(?)は2部のカーズ、3部のDIOで特に目立つ。 ただ、これが極大化されたのは5部からだ。 第5部からは奇妙なほどキャラクター間の距離が近く、手足が絡むイラストや漫画カットが多くなる(元々も多かったが、より多くなる)。 西欧圏のオタクたちが5部に最も多く布陣したのも不思議ではない。第5部からは、誰がクィアニスの記表(signifiant)なのか論じる余地もない。 キャラクターの全てがそうだ。 女性を除いて。 荒木さんもX世代のおじさんなので、仕方なく女性を表現する部分では少し足りない部分がある。 だが、6部の主役が全て女性になって作家特有のクィアニスを興味深く見せたという点は高く評価されなければならない。
とにかく4部までは話が違う。 各部ごとに「見えるクィアニス」の記表として作用するキャラクターがいる。 4部の場合、それが岸辺露伴だ。 理由はこれから言う。
1. 4部での唯一性
韓国正発表紙イメージ
4部内ではキャラクターの身体露出が少ない。 承太郎の場合学生ではないが、学生だった3部からそんなキャラクターだったから、ジョジョの内でキャラクターの身体露出が少ない方だ。(www) しかし、岸辺露伴はちょっと例外だ。 他のキャラクターたちは学生なので脱ぐのはちょっとあれだったのか、みんな服をよく着せておいて、どうしてももどかしかったようだ。 岸辺露伴はしきりに脱ぐ。 怪しいほど服がよく変わる。 他のキャラクターを脱がせていない荒木さんの解消なのか、と思うほどだ。 お腹を出すのは普通のことで、スカートのような服を着て、多少女性用ブーツのように見えるものを履いて、さらには下着もなしに穴が空いた服を着て通う。
そのため、4部内のクィアニスは岸辺露伴がほとんど責任を負っていると言っても過言ではない。 荒木さんはただ美学的な解消をしただけだろうが、読者にはそうではない。 露伴は4部という限られた世界観内のクィアニスの記表になる。 これが現象として現れたのが西洋ファンダムの方式だ。 東洋にはそのような作品が多くないが、西洋のファンダム連城ではこのような台詞がよく登場する。
「岸辺露伴の服だけ見てもわからないの? あの人がゲイだと」/「君は僕の服を見ても私がゲイだと思わなかった?」
でも、これがただのゲイジョークを越えて特別になる理由は···
2. ジョジョは元々そうじゃん
そうだ。先に言ったように、ジョジョは全部を通してクィア的要素が強く宿っている。 実は岸辺露伴のクィアニスの記表はアナスイのファッションに比べれば何でもない。(網に意味がわからない靴底!) そのため、4部を離れて全体部を基準にした時、露伴のファッションはありふれた「ジョジョ」キャラクターに過ぎない。 クィアニスまで行くこともない。
だから岸辺露伴が持つクィアニスの記表は、4部内に限定するか、4部以外まで含めるかによって大きく変わる。 4部内では明白な記表だが、4部を外れると意味を失うことになる。 ところで、覚えていますか? 前編に言ったように岸辺露伴は「分からない存在」であることがキャラクター性そのものだ···
前編の文の一部を剥がしてきた。 そうだ、岸部露伴はすべての部を行き来する存在だ。 部を行き来する存在が露伴だけではないが(ジョセフ、承太郎など)、皆が線形的に時間に沿って行き来したとすれば、露伴は一人で離れて縦横無尽にすべての部を行き来する。 しかも9部まで! つまり、露伴のクィアニスの記表も限定的ではないという意味だ。 場合によっては、これさえも流動的に変わる。 これにより、性的少数者でもおかしくなく、シスジェンダーヘテロセクシャルであってもおかしくない。 すべてのキャラクター解釈が似合う存在になる。 珍しいことだ。
マンボックス?何それ?
ジョジョのもう一つの独特な点は、記表的にはクィアでありながら、内容的にはマッチョ性を抜け出せないという点だ。 キャラクターたちはマッチョ的にジェンダーステレオタイプ(gender sterotype)に従って行動する。 また、これは韓国でも言及されたことのあるテーマで、ジョジョは女と男を問わず「メール·ゲイズ(male-gaze)」でキャラクターを描き出す。 前述したように、そのためにクィアニスが自然なことになってしまった。 ところが、クィアニスを持ってする行動はジェンダーステレオタイプ的だ。 これもかなりのアイロニーであり、一般的には起こらないことだ。 ジョジョだから可能だ。
ところが、岸辺露伴はマッチョ的に行動しない。 むしろファンさえ彼を分別がないと言うほど、小学生と本気で勝負をするかと思えば、クモを舐めるなど変な行動だけを日常的にする。 「ジェンダーステレオタイプと距離が遠くなった」水準ではなく、ただジェンダーステレオタイプを論じる意味がない。 彼のすべての行動はリアリティ中心に流れる。 もちろん、作家である荒木さんの限界により「岸辺露伴は動かない」シリーズでおじさんのような発言をする場面が少しあったが、基本的にはジェンダーステレオタイプから一歩離れている存在だ。
クィアネス記表、メールゲーズボディを(male-gaze body)持ちながらジェンダーステレオタイプ通りに動かない男性キャラクターはジョジョの内でも珍しい。 事実上唯一と見ても差し支えないだろう。 したがって、露伴はジョジョの内部にいながらも一歩退いて外部的視線、すなわち全知的作家の視線でジョジョという作品を「ゲイズ(gaze)」できるようになる。 ここでもう一度露伴は自由奔放な存在としての光を放つことになる。 西洋ファンのキャラクター解釈がこのように分かれる場合も珍しいだろう。
露伴が好きならゲイですか? いや、普通そうだということは分かりますが、本当ですか? 冗談のように見えるが私は今真剣だと··· ネットで見るのがすべてではないでしょう(アイデンティティに混乱が来たようだ)
チッチャイゲイ露伴··· 私の考えでは露伴はgrinder(ゲィデートアプリケーション)プロフィールに「no脂肪no女性」と書いておいて,ツイッターで人々slurs(良い単語ではない)と称するそういう類のtwink(乾いたゲィを指す)みたい···
ある人は露伴を無性愛スペクトラムに、またある人はゲイに、ある人はシスジェンダーヘテロに、ある人はジェンダークィア(主にノンバイナリー)に解釈する。 そして自分たち同士でものすごくケンカする! しかし、これはファン各自がどれを取捨選択したかによって変わるだけだ。4部内のクィア記表だけを取捨選択したなら、ローハンがゲイであることは十分に似合う。 しかし、その外部に移れば、すでに変なファッション人のキャラクターがあまりにも多い関係で、露伴が特出するものがなくなるため、シスジェンダーヘテロであることもやはり似合う。 また、4部内のクィア記表だけを選択する場合、唯一女性服に近い服を着るキャラクターが露伴なので、ジェンダークィア(gender queer)的に解釈しても似合う。 しかし、4部の外に移れば「ジョジョは元々そうじゃないか」という言葉で一蹴できるようになる。 これだからけんかになるのだ。 どれを取捨選択したかによって適用可能なものが変わるだけなのに。
1. 誰も何をどう着ていようが気にしない世界線を選んだ西洋のオタクたちが使うファンピック (ジョジョ世界観全体)
2. 露伴のクィアニスを極大化することを選んだ西洋のオタクたちが使うファンピック(4部のみ)
この二つは様相が全く違う。 AO3を読んでいると、この克明な違いが興味深い時がある。 実は彼らが戦う必要もないのだ。露伴がこうなったのは、露伴が自由奔放に4の壁を越えて動く謎のキャラクターだから。 それが露伴のキャラクター性なので。 岸辺露伴はクィアニスですら通用する「ヘッドキャノン(head canon)」を残さず、曖昧な存在として残った。 明らかに決まった同人設定がなく、人によってそれぞれ違う話をさせる男なんて露伴なんだろう? 露伴がこの光景を見ているなら、満足にうなずくだろう。 彼は自分に対して通用するヘッドキャノンを残したがらないだろう。(だからこのような分析文も見れば激怒するだろう)
そして、それで露伴は再びメタ的だ。 第三者的(全知的)視点で話ができるようになる。
作品の外で
これまで長く説明したロハンのキャラクター性をたった一つの単語で縮約するとこうなる。 「メタ的」だ。 そしてメタ的なので、人々が個人の経験とキャラクターを結び付けやすくなる。
東洋の場合、公式とキャラクター解釈が非常に重要な領域を占め、そうでなければ変な扱いを受けるためにこのようなことが少ないが、西洋圏のファンダムはジャングルのようだ。 あえて露伴でなくても個人の経験をキャラクターに連結し、それを公然と表わして作品に適用する。 私たちのやり方で言えば「作家がオポシティに見える」作品が多い(必ずしも悪いとは思わない)。
だから、露伴のように自由奔放な、言うとおりに話になるキャラクターに会うと、どんなことが起きるのか、言わなくても十分に分かるような気がする。 露伴はそのため人気があり、スター性を持つ。 そのため、アンチファンも多い。 韓国の有名歌手が言った言葉がある。 「真のスターはファンとアンチファンを 同時に狂わせる」··· 岸辺露伴はジョジョファンダムの中でもそのような存在だ。 誰かはそのような自由奔放さにうんざりするだろう。 他部、他のキャラクターに対する侵害と感じられるだろう。 事実、「侵害」という単語が間違っているわけでもない。 4部から主人公の領域を侵害するように生まれ、あちこち行き来しながらヘブンズドアで開き「侵害」することがキャラクターの本質でもあるからだ。
したがって、あるクィアは自分を露伴に結びつける。 あるクィアは、自分のクィアニスが露伴というキャラクターによって侵害されたと考え、アンチファンになる。 私は露伴が好きで、強いて言えば連結する方だろうが、侵害されたと感じて背を向ける方も間違っていない。 十分にあり得る。
当たることもまちがいもないのが岸辺露伴なので!
これらすべてが再び、岸辺露伴である。 自由奔放な。
次回ではいよいよニーチェの話が出てきます。
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